いちばんイメージダウンしたのは誰か。 ― 2009/06/02
先日沖縄で、
暴走族に憧れる若い人を減らす目的で、
カッコ悪い新名称を決めるために公募し、
「ダサイ族」に決定したというニュースがあった。
このネーミングセンス自体が
ダサいと感じられるのは、私だけではあるまい。
イメージダウンを図ろうとしたのだろうが、
むしろこれを決定した人たちの方が、
ダサいと思ってしまった。
そもそもこの名では、
彼らがどのような行為を行う集団かが表されてない。
単にファッションのダサい集団にも当てはまるし、
完全に意図が空回りしている印象である。
第一これを選んだ人たちは、価値観の多様化した昨今の世情への認識が足りないのではないか。
「気持ち悪い」も「かわいい」に転じたり、「ダサい位がカッコいい」といった考え方さえあるのだ。
ネット上など一部では、従来より「珍走団」なる名称がよく使われていた。
これなら行為も表現され、なおかつそれをうまい具合に貶めている。
なぜ新たに募集する必要があったのだろうか。
むろん、言葉は時代の移り変わりによって、どんどん意味が転じて全く別の意味が付与されたりもする。
また、定着してしまえば完全に記号化し、破壊力が失われていくこともあるだろう。
「珍走団」も当初の力はないかも知れない。
しかし「ダサイ族」は幾つもの意味で、始めから件の目的を達成するための条件を備えていないと思う。
まさかとは思うが、アフリカのあの部族の名と掛けてるのではないだろうな。
だとすれば、彼らに失礼極まりない話だし、とんでもない。
あるいは、これも以前書いた、募集イベントのためのイベントではないだろうか。
つまり募集イベントを行うこと自体が啓蒙につながるのだから、結果はどうでも良いという考え方である。
さて、このブログをお読みになったことがある方なら、
「ははあ、この辺りで『自分こそ本物のダサイ族』だと言って落す気だな」と察したかも知れない。
残念ながら、お察しの通りです。
暴走族に憧れる若い人を減らす目的で、
カッコ悪い新名称を決めるために公募し、
「ダサイ族」に決定したというニュースがあった。
このネーミングセンス自体が
ダサいと感じられるのは、私だけではあるまい。
イメージダウンを図ろうとしたのだろうが、
むしろこれを決定した人たちの方が、
ダサいと思ってしまった。
そもそもこの名では、
彼らがどのような行為を行う集団かが表されてない。
単にファッションのダサい集団にも当てはまるし、
完全に意図が空回りしている印象である。
第一これを選んだ人たちは、価値観の多様化した昨今の世情への認識が足りないのではないか。
「気持ち悪い」も「かわいい」に転じたり、「ダサい位がカッコいい」といった考え方さえあるのだ。
ネット上など一部では、従来より「珍走団」なる名称がよく使われていた。
これなら行為も表現され、なおかつそれをうまい具合に貶めている。
なぜ新たに募集する必要があったのだろうか。
むろん、言葉は時代の移り変わりによって、どんどん意味が転じて全く別の意味が付与されたりもする。
また、定着してしまえば完全に記号化し、破壊力が失われていくこともあるだろう。
「珍走団」も当初の力はないかも知れない。
しかし「ダサイ族」は幾つもの意味で、始めから件の目的を達成するための条件を備えていないと思う。
まさかとは思うが、アフリカのあの部族の名と掛けてるのではないだろうな。
だとすれば、彼らに失礼極まりない話だし、とんでもない。
あるいは、これも以前書いた、募集イベントのためのイベントではないだろうか。
つまり募集イベントを行うこと自体が啓蒙につながるのだから、結果はどうでも良いという考え方である。
さて、このブログをお読みになったことがある方なら、
「ははあ、この辺りで『自分こそ本物のダサイ族』だと言って落す気だな」と察したかも知れない。
残念ながら、お察しの通りです。
アルペン踊りは小槍の上で踊りましょう。 ― 2009/06/07
人間誰しも思い違いというのはあるのではないか。
漢字の読み違いや歌詞の聞き違いもあるだろう。
かつて漢字の読み間違いで名を下げた宰相のことを、
そうそう笑ってばかりもいられない。
少なくとも子供の時に間違えて覚えたことは多い。
私は小さい頃「焙じ茶」のことを、
「“法事”茶」と勝手に思いこんでいて、
法事の時に飲むお茶だとぼんやり考えていた。
法事の時だけ飲むそんなお茶がある訳はないのだが、
そこは子供である。
焙じ茶も時々飲んでいたのに、よく両親がしていた、
「今日は親戚の誰々の法事で…」云々という話を、
法事などたまにしかなかったにも拘らず、しょっちゅうあったような気がして、
飲む度に、「ははあ、また今日もどこかで法事があったんだな」などと考えていたのである。
いくら子供とはいえ、今から考えれば相当バカっぽいが、
近くに茶舖もなく、茶を焙じるなどという概念がその頃はとても持てなかったのだ。
また、歌の歌詞でも勘違いは多い。
これも子供の頃の話だが、「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」という歌がある。
♫緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小山羊も啼いてます
この歌の、「メイメイ小山羊も啼いてます」のところは、
小山羊が「銘々」つまり「それぞれ」啼いているのだと思っていた。
「んなバカな」とみなさんお考えかも知れない。実際この話をすると、たいていの人が、
「子供がそんな事を考える訳がない。子やぎの歌なら啼き声としか思わないはずだ」と言うのだ。
しかし当時の私は本当にそう思っていて、つまるところ、私はそんな子供だったのである。
もちろんこれらは全て子供の頃の勘違いの話で、今ではそんな事はありませんとも。
ここのブログの文章を読んで、あれ、この字違うんじゃ…と考えたことのあるあなた、
誤変換、誤変換。
(「鐘の鳴る丘」作詞:菊田一夫)
漢字の読み違いや歌詞の聞き違いもあるだろう。
かつて漢字の読み間違いで名を下げた宰相のことを、
そうそう笑ってばかりもいられない。
少なくとも子供の時に間違えて覚えたことは多い。
私は小さい頃「焙じ茶」のことを、
「“法事”茶」と勝手に思いこんでいて、
法事の時に飲むお茶だとぼんやり考えていた。
法事の時だけ飲むそんなお茶がある訳はないのだが、
そこは子供である。
焙じ茶も時々飲んでいたのに、よく両親がしていた、
「今日は親戚の誰々の法事で…」云々という話を、
法事などたまにしかなかったにも拘らず、しょっちゅうあったような気がして、
飲む度に、「ははあ、また今日もどこかで法事があったんだな」などと考えていたのである。
いくら子供とはいえ、今から考えれば相当バカっぽいが、
近くに茶舖もなく、茶を焙じるなどという概念がその頃はとても持てなかったのだ。
また、歌の歌詞でも勘違いは多い。
これも子供の頃の話だが、「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」という歌がある。
♫緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小山羊も啼いてます
この歌の、「メイメイ小山羊も啼いてます」のところは、
小山羊が「銘々」つまり「それぞれ」啼いているのだと思っていた。
「んなバカな」とみなさんお考えかも知れない。実際この話をすると、たいていの人が、
「子供がそんな事を考える訳がない。子やぎの歌なら啼き声としか思わないはずだ」と言うのだ。
しかし当時の私は本当にそう思っていて、つまるところ、私はそんな子供だったのである。
もちろんこれらは全て子供の頃の勘違いの話で、今ではそんな事はありませんとも。
ここのブログの文章を読んで、あれ、この字違うんじゃ…と考えたことのあるあなた、
誤変換、誤変換。
(「鐘の鳴る丘」作詞:菊田一夫)
次回同窓会はメイド・ホテルで行います。 ― 2009/06/28
なんだか最近いろんな人が亡くなるのである。
もちろんいつだって多くの人が
亡くなっているのであって、
何も今年に限ったことではないのだろうが、
このところ多いと思ってしまうのは、
私だけではないだろう。
以前ここに書いた高校の同窓会であるが、
やはり行ってみようかと考えるようになった。
なにしろ今の内に会っておかなければ、
何が起きるか分からない。
このまま生涯会えぬかも知れないのだ。
いや、というより、機会が極端に少ないこともあり、おそらく最後になることは確実である。
これで見納め、と、旧交を温めて来ようかと思う。次に会うのはあの世かも知れぬ。
天国か、地獄か分からぬが。
もしかしたら私ひとり地獄で、誰とも二度と会わなかったらどうしよう。
そんな心配はともかく、
旧友に会うなり一言、「やあ、これで金輪際会うこともないな」などと言って激怒されて来るか。
もっとも若い時と違って、皆同じような思いかも知れず、むしろしみじみするかも知れん。
酒席で「あの世で会おう」などと言うと、これから戦地に向うみたいだが、
皆そろそろどこかしら体が悪くなり始める頃である、
ある意味、生き残りをかけたサバイバルに、いよいよ突入すると言えるのではないか。
こんな文章を書いていると、一体どんだけ爺さんなんだよ、と思われるだろう。
さすがにいくら何でも、棺桶に片足突っ込む程の歳まではまだまだ長いし、確かに考え過ぎかも知れない。
だが油断は禁物なのである。
ところで、前回の更新からずいぶん経ってしまった。
放置、もしくは閉鎖になったかと思われた方も居られよう。
しかし、私自身は日付の数字ほどの日にちが経過したと感じられないのだ。
危ない、危ない、早くもお迎えが?
もちろんいつだって多くの人が
亡くなっているのであって、
何も今年に限ったことではないのだろうが、
このところ多いと思ってしまうのは、
私だけではないだろう。
以前ここに書いた高校の同窓会であるが、
やはり行ってみようかと考えるようになった。
なにしろ今の内に会っておかなければ、
何が起きるか分からない。
このまま生涯会えぬかも知れないのだ。
いや、というより、機会が極端に少ないこともあり、おそらく最後になることは確実である。
これで見納め、と、旧交を温めて来ようかと思う。次に会うのはあの世かも知れぬ。
天国か、地獄か分からぬが。
もしかしたら私ひとり地獄で、誰とも二度と会わなかったらどうしよう。
そんな心配はともかく、
旧友に会うなり一言、「やあ、これで金輪際会うこともないな」などと言って激怒されて来るか。
もっとも若い時と違って、皆同じような思いかも知れず、むしろしみじみするかも知れん。
酒席で「あの世で会おう」などと言うと、これから戦地に向うみたいだが、
皆そろそろどこかしら体が悪くなり始める頃である、
ある意味、生き残りをかけたサバイバルに、いよいよ突入すると言えるのではないか。
こんな文章を書いていると、一体どんだけ爺さんなんだよ、と思われるだろう。
さすがにいくら何でも、棺桶に片足突っ込む程の歳まではまだまだ長いし、確かに考え過ぎかも知れない。
だが油断は禁物なのである。
ところで、前回の更新からずいぶん経ってしまった。
放置、もしくは閉鎖になったかと思われた方も居られよう。
しかし、私自身は日付の数字ほどの日にちが経過したと感じられないのだ。
危ない、危ない、早くもお迎えが?
最近のコメント