わたしのわたしのアレは左利き。2010/07/03

わたしのわたしのアレは左利き。
雨が屋根を打つ音が間断なく聞こえ、
それが逆に静けさをもたらしているような深夜、
いつものように、一人コーヒーを入れる。
 
コーヒー豆の袋からメジャースプーンで、
マグ用にと何気なく1杯、2杯・・・
と、ふと気がつくと、
右手に豆袋、左手にスプーンを持って作業をしている。
 
思い返せば、いつもこうやってやっているのだ。
私は右利きである。それは間違いない。
 
確かに、何か床に散らかったものを拾い集める時も、
右手にそれを入れる物を持って左手で作業している。
コーヒーを飲むのも、ビールを飲むのも左手である。
むかし煙草を吸っていた時も左だった。
 
むろん右でやることも当然のことながら多い。
字を書くのも、箸を握るのも、マウスを操作するのも、歯を磨くのも、刃物を使うのも右だ。
どうやら微妙な力加減が必要な作業を右手が受け持つようである。
 
そう言えば、球技をやっていた若い時、両手を同じように使えなければダメだという事で、
左手で箸を持って食事をすることが推奨されていた時代があった。
食事という、生きるために何が何でもやらなければならない場面でのトレーニングなので、
誰しもすぐにできるようになり、実際今でも左手で箸が普通に使える。
もしかするとこの頃の名残なのか、何か違う気もするが。
 
あまり人に聞いたことはないが、これは右利きの人には普通のことなのだろうか。
体の中で偏りが出ないように無意識にバランスをとっているのかも知れない。
 
左手でコーヒー・酒・煙草・ゴミを扱い、右手で仕事や食事に関するものを扱っているということになる。
ここだけの話、トイレで拭くのも左手である。インド人の様に神の右手・不浄の左手と呼んでみるとする。
なるほど、無意識の行動だからこそ、これは何か意味がありそうな行動に思えて来た。
いかんいかん、私がどちらの手で扱うかで、その物や人をどう思っているのかがバレるではないか。
 
ところで、タイトルから下ネタを想像したあなた、残念でした。
ここにそんな記事を書く訳……いやまてよ、アレ…。
 

老兵は死なず…いや、消えず死にゆくのみ。2010/07/08

老兵は死なず…いや、消えず死にゆくのみ。
やっとこさ携帯をiPhone4に替えた。
予想をはるかに超える品薄で、
予約初日の早い段階で予約完了したのに、
発売日には入手できず、
10日程過ぎて何とか、家族の分と2台確保したのだ。
 
ここでも書いた前の携帯の最後のヨレヨレぶりは、
筆舌に尽くし難いとも言うべき惨状であった。
 
機械にも魂があるのかも知れないと思ったのは、
何とか発売日まで持ってくれと、
引っぱりに引っ張った挙句、発売日に入手できないと、
急激に使い物にならなくなった事だ。
調子の良くなかった音声通話が一切使えなくなり、
緊張の糸が切れたかのようだった。
なんというか、ガックリと老け込んだといった印象である。
 
まあ、とにかくこれでお役御免、ゆっくり眠ってもらおう。
奇しくも「はやぶさ」の宇宙旅行と同じ年月を経ての退役であった。
 
さて、肝心のiPhone4であるが、アンテナ問題が特にアメリカでかなり取り沙汰されているようである。
しかし実際に使用してみた感じでは、持ち方による感度の低下はさほど深刻な問題とは思えなかった。
 
それにしても工業製品としての仕上がりは素晴らしい。工芸品とでも言うべき美しさで、
他の携帯電話やスマートフォンを、安物のオモチャに見せてしまうではないかというレベルである。
2枚の強化ガラスとステンレスで構成された筐体は、画像でみるより遥かに美しい。
余分な装飾は一切なく、機能美そのものと言っていいだろう。
しかもモダンでありながら、どことなくスチームパンクのテイストも感じられる。
机の上にポンと置いてあるとさりげなさ過ぎて意外と目立たないが、手に取ると凄みが伝わってくる。
まさに子供の頃に夢見ていた21世紀のガジェットとはこうあるべきだと思った。
 
機能、素材、デザインを高いレベルで統合し、具現化してみせてくれたのであるが、
その構造がアンテナ問題という落とし穴につながっていようとは、
曇りなく喝采を得たいと願ったであろうデザイナーや技術者には痛恨事だろう。
 
網膜の解像度の限界を超えるといわれる、液晶画面の「Retinaディスプレイ」は、
よくある携帯電話のサンプル製品の画面に貼ってある印刷物の写真のように緻密である。
確かに326ppiという解像度は、我々が通常扱う印刷物の画像の350dpiに数字上は概ね対応する。
(但し印刷はビットマップ画像部分での話で、テキストや図形などのベクトルデータ部分は1200dpi前後)
 
もっとも、私には網膜の限界以前に、水晶体の限界を超えてしまっているので、
まさに豚に真珠状態である。とほほ。
 

鉛筆達への賛美歌か、鎮魂歌か。2010/07/18

鉛筆達への賛美歌か、鎮魂歌か。
先日のニュースサイトの記事によると、
宮崎駿氏がスタジオジブリの小冊子の特集記事で、
「iPadを操作する手つきは自慰行為のようだ」
と発言されているらしい。
 
原文を読んだ訳ではないが、そんな事を言い出せば、
たいていのことは同じように言えてしまいそうだが、
テクノフォビアとの評もある氏らしい発言ではある。
 
誤解のないように書くと、氏の発言の本来の趣旨は、
自身には紙と鉛筆さえあればよく、
単なる消費者になるのではなく、生産する者になれ、
ということのようだ。
 
むろん、iPad等のいわゆる情報端末に、
のめり込む事の危うさを指摘しているのは、Newsweekなども含め、なにも氏ばかりではない。
また、iPadでは生産的なことが何もできないという考えは、いささか氏の偏見が大きいと思うが、
気持ちは分からぬでもない。
先端技術を詰め込んだ製品を所有し使っているだけで、
あたかも自分自身が高みに登ったかのように感じるのは、確かに愚かなことだと言えるだろう。
 
ここで、或る古いSFの短編を思い出すのは私だけではないはずだ。
この作品の主人公は、ほぼ全ての若者がパスする生涯に一度の適性試験に落ち、
そのために最先端のシステムによる自動職業訓練を受けられなかった。
同級生はみんなそのシステムのプログラムを受け、誇らしげにそれぞれの適性に応じた職業に就いていた。
主人公はと言えば、図書館と庭がある療養所のような施設で、先端技術とは無縁で暮すことになる。
元々成績の悪くなかった彼はドロップアウトしたことに耐えきれず、そこを飛びだしてしまうのだが、
実は彼らは別の適性試験にパスし、創造力を発揮すべく配置された類い稀な才能だったという話である。
 
先端のテクノロジーと言えど、機械が自動的に生み出しているのではなく、
それも人間の創造力の賜物であることを忘れてはなるまい。
 
私もデジタル化の波が押し寄せる前は、烏口やロットリングなどのペンで紙の上にデザインしていたのだ。
二十年近く前、DTPによる大きな変革が訪れ、対応できない人はことごとく転職せざるをえなくなった。
だがどれだけ技術革新が進もうとも、物事の本質は変わらない。最先端のIT機器であれ道具は道具である。
低い脚立に立つか、高い脚立に昇るか、あるいはそこから羽ばたくのか、要は人間次第ではないか。
 
ところで、上で或る古いSFなどと態とぼかしたように書いているが、
実は作者とタイトルがどうしても思い出せなかったのだ。
確か外国の有名作家の作品だったと思うが、なにぶん若い時に乱読したものの一つなので、
この錆び付いた脳の検索機能ではリストアップされないのである。
やはり私には、どう言われようと情報機器が欠かせないのか。…というオチにしようと思ったが、
何度もやりすぎたパターンだという事にはかろうじて気がついた。回数は思い出せないがね。
 
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