老兵は死なず、ただ錆び付くのみ。 ― 2009/09/09
少し前にさかのぼって恐縮だが、
このブログからもリンクしている、
「一日一冊」の8月23日付けの記事に、
その日採り上げた対談本に関連して
井伏鱒二の盗作について書かれていた。
古今東西、盗作に関する事件や疑惑は多く、
またその性質上、事が簡単でない場合も多い。
全く確信犯的な場合は論外で、
ペナルティを科すべきなのだが、
これをすっとぼけたり、開き直られると厄介だ。
ノンフィクションを素材として、
フィクションの小説にしたとも主張されたりする。
いくつかの文章を寄せ集めたものを、これはアートに於けるコラージュ技法だなどという輩も出てくる。
これは一種のオマージュです。出典や引用の注釈を入れ忘れました。等々。
デザイン業界の場合、少しこの辺り特殊で、技法そのものは流用が許されているのだ。
そうでなければ、それこそ子持ち罫のようなものさえ引けぬことになる。
また最近WEBのボタンに多い、MacOS XのAquaのようなグラフィックも使えぬようになってしまう。
無論これはあくまで技法であって、画像などの素材を勝手に流用してはならないのはいうまでもない。
あと厄介なのは本人がそれと気付かず、知らず知らずのうちに他人の著作物を使ってしまうことである。
つまり、多くの著作物を目にし、自分でも作り上げている場合、
何が自分のオリジナルで、何が他人の手によるものかが判別できなくなってきたりするのだ。
脳内に検索システムでもあればよいのだろうが、あっても精度に信頼性がそれほどおけまい。
私の場合、かなり以前から脳内検索システムはろくに作動せず、
それどころか、以前自分の書いたことさえ忘れ、何度も同じ話を書いているかも知れない。
なにしろ、友人がかなり面白い話をしたので、「へえ〜面白いね」と感心していたら、
以前に私から聞いた話だというではないか!!
いくら何でも検索システム錆び付き過ぎだろう。こうなりゃ昼食を2〜3回食っても驚かないかも知れぬ。
ところで、今日が9.9.9という日付だからって、あの方を連想してこんな話題にした訳ではありませんよ。
というか、最後になってそれを思い出した。
やっぱり相当ヤバいな。
このブログからもリンクしている、
「一日一冊」の8月23日付けの記事に、
その日採り上げた対談本に関連して
井伏鱒二の盗作について書かれていた。
古今東西、盗作に関する事件や疑惑は多く、
またその性質上、事が簡単でない場合も多い。
全く確信犯的な場合は論外で、
ペナルティを科すべきなのだが、
これをすっとぼけたり、開き直られると厄介だ。
ノンフィクションを素材として、
フィクションの小説にしたとも主張されたりする。
いくつかの文章を寄せ集めたものを、これはアートに於けるコラージュ技法だなどという輩も出てくる。
これは一種のオマージュです。出典や引用の注釈を入れ忘れました。等々。
デザイン業界の場合、少しこの辺り特殊で、技法そのものは流用が許されているのだ。
そうでなければ、それこそ子持ち罫のようなものさえ引けぬことになる。
また最近WEBのボタンに多い、MacOS XのAquaのようなグラフィックも使えぬようになってしまう。
無論これはあくまで技法であって、画像などの素材を勝手に流用してはならないのはいうまでもない。
あと厄介なのは本人がそれと気付かず、知らず知らずのうちに他人の著作物を使ってしまうことである。
つまり、多くの著作物を目にし、自分でも作り上げている場合、
何が自分のオリジナルで、何が他人の手によるものかが判別できなくなってきたりするのだ。
脳内に検索システムでもあればよいのだろうが、あっても精度に信頼性がそれほどおけまい。
私の場合、かなり以前から脳内検索システムはろくに作動せず、
それどころか、以前自分の書いたことさえ忘れ、何度も同じ話を書いているかも知れない。
なにしろ、友人がかなり面白い話をしたので、「へえ〜面白いね」と感心していたら、
以前に私から聞いた話だというではないか!!
いくら何でも検索システム錆び付き過ぎだろう。こうなりゃ昼食を2〜3回食っても驚かないかも知れぬ。
ところで、今日が9.9.9という日付だからって、あの方を連想してこんな話題にした訳ではありませんよ。
というか、最後になってそれを思い出した。
やっぱり相当ヤバいな。
なんか画像を間違えたような気がします。 ― 2009/09/03
誰しも渾名・ニックネームがあるのではないか。
本名とほとんど変わらず、ただの愛称だとしても、
あるには違いない。
ペンネームやハンドルネーム、芸名なども、
自称とはいえ、広い意味ではそう言えるだろう。
だが、たいていの渾名は家族や友人達が、
ひょんなことから名付けて定着したものが多く、
たとえ本人の意にそぐわなくとも、
一人歩きしてしまいがちである。
特に若い頃につけられた渾名は、
とんでもないことが語源の場合が多く、
それが故にかえって定着してしまい、
広く伝播されるにつれて、いつのまにか元の意味は忘れ去られ、
気付いた時には何のことやら訳が分からなくなり、解説できる者もいなくなったりする。
私の「Binsei」という名も、スタジオの名称、ニックネーム、ペンネーム等々、使われて相当長い。
もともとは自分で名乗り始めたもので、印象的な由来などないのだが、
もはや完全に記号化してしまって、家族も普通にそう呼んでいる。
ところで、この「Binsei Blog」にもやっとスパム対策が行われるようになった。やれやれである。
今まで無法地帯のようなところがあったので、いちいち削除するのが煩わしかったのだ。
よくある文字認証ではなく、URLを本文中に貼付けているコメントをはじくように設定した。
これまでスパムコメント以外でURLを貼られた方はおられないが、
今後もし何らかのURLをコメント中に入れたい方は、アドレスを「ttp://」で始めて頂ければ幸いである。
さて、この「スパム(spam)」という言葉も、
もともとはハッカーたちがモンティ・パイソンのコントから名付けた、いわば渾名な訳だが、
名前の由来になっているランチョンミート「SPAM」の缶詰を販売するHormel Foods社も、
商標などに使う場合は認めていないが、言葉が普及している事にはそれほど憤っていないように見える。
さては広告になってしめしめ、と考えているのかも知れない。
実際私もリンクを貼ってしまったのだ。あああ、思うツボではないか。
本名とほとんど変わらず、ただの愛称だとしても、
あるには違いない。
ペンネームやハンドルネーム、芸名なども、
自称とはいえ、広い意味ではそう言えるだろう。
だが、たいていの渾名は家族や友人達が、
ひょんなことから名付けて定着したものが多く、
たとえ本人の意にそぐわなくとも、
一人歩きしてしまいがちである。
特に若い頃につけられた渾名は、
とんでもないことが語源の場合が多く、
それが故にかえって定着してしまい、
広く伝播されるにつれて、いつのまにか元の意味は忘れ去られ、
気付いた時には何のことやら訳が分からなくなり、解説できる者もいなくなったりする。
私の「Binsei」という名も、スタジオの名称、ニックネーム、ペンネーム等々、使われて相当長い。
もともとは自分で名乗り始めたもので、印象的な由来などないのだが、
もはや完全に記号化してしまって、家族も普通にそう呼んでいる。
ところで、この「Binsei Blog」にもやっとスパム対策が行われるようになった。やれやれである。
今まで無法地帯のようなところがあったので、いちいち削除するのが煩わしかったのだ。
よくある文字認証ではなく、URLを本文中に貼付けているコメントをはじくように設定した。
これまでスパムコメント以外でURLを貼られた方はおられないが、
今後もし何らかのURLをコメント中に入れたい方は、アドレスを「ttp://」で始めて頂ければ幸いである。
さて、この「スパム(spam)」という言葉も、
もともとはハッカーたちがモンティ・パイソンのコントから名付けた、いわば渾名な訳だが、
名前の由来になっているランチョンミート「SPAM」の缶詰を販売するHormel Foods社も、
商標などに使う場合は認めていないが、言葉が普及している事にはそれほど憤っていないように見える。
さては広告になってしめしめ、と考えているのかも知れない。
実際私もリンクを貼ってしまったのだ。あああ、思うツボではないか。
時には耳を塞ぎたくなる事がありませんか。 ― 2009/08/20
夏休みをとって遠出したのだが、
やはり地方、特に田舎の蝉は全然違う。
一番の違いは何と言ってもミンミンゼミだろう。
街中ではまず鳴き声を聞く事はない。
そしてその音量たるや、
帰ってからもずっと耳の奥で鳴き続けているのである。
コンピュータのファンの音を、
アブラゼミなどのベースの音に見立てて、
サラウンドのステレオで聞こえてくるほどなのだ。
これはもしかして幻聴?
おおっと、危ない、危ない。今は別な意味でアブない。
それはともかく、例によって話は変わるが、
選挙の公示日を過ぎて、いよいよ選挙カーがやかましくなってきたのだ。
あの選挙カーをうるさく思っている人は多いと思われるのだが、時代が変わってもなぜか健在である。
思うに、うるさく感じるポイントは1点、候補者の名前を連呼する事にあるのではないか。
つまり、候補者の名前を連呼する事を禁止しさえすれば、静かになるのではないかと思われる。
例えば、1分間に2回以上名前を言ってはいけないようにすれば、
選挙カーは名前以外の情報を盛り込まねばならず、いきおい中身のあるものになる。
もちろん録音されたものを流すのを防ぐために、それも禁止する。
こうなると、よほどの弁士を車に乗せなければならなくなって、
いずれはスピーカーを鳴らしてまわる選挙カーそのものが廃れてしまうだろう。
と、ここまで考えて、「まてよ、原稿を読み上げたらおしまいだな」と気がついた。
それ以外にも抜け道がいっぱいありそうだ。
単純に選挙カーそのものを禁止すれば良いだけではないか。なあんだ。
ま、しないんだろうけど。
蝉の声が耳の奥から消えたと思ったら、今度は候補者の名前がサラウンドで聞こえ始めるのか。
やれやれ、おそらくはこれが狙いだろうが、これまた危ない事に変わりはない。
いっそスピーカーで本物のセミの声を流してくれた方がマシかも知れない。
候補者別に蝉の種類を割り当てるのだ。
「はい、あなたミンミン。あなたはツクツクボウシね。あなたはヒグラシ、あなたは……」
あ、冬はどうしよう。
やはり地方、特に田舎の蝉は全然違う。
一番の違いは何と言ってもミンミンゼミだろう。
街中ではまず鳴き声を聞く事はない。
そしてその音量たるや、
帰ってからもずっと耳の奥で鳴き続けているのである。
コンピュータのファンの音を、
アブラゼミなどのベースの音に見立てて、
サラウンドのステレオで聞こえてくるほどなのだ。
これはもしかして幻聴?
おおっと、危ない、危ない。今は別な意味でアブない。
それはともかく、例によって話は変わるが、
選挙の公示日を過ぎて、いよいよ選挙カーがやかましくなってきたのだ。
あの選挙カーをうるさく思っている人は多いと思われるのだが、時代が変わってもなぜか健在である。
思うに、うるさく感じるポイントは1点、候補者の名前を連呼する事にあるのではないか。
つまり、候補者の名前を連呼する事を禁止しさえすれば、静かになるのではないかと思われる。
例えば、1分間に2回以上名前を言ってはいけないようにすれば、
選挙カーは名前以外の情報を盛り込まねばならず、いきおい中身のあるものになる。
もちろん録音されたものを流すのを防ぐために、それも禁止する。
こうなると、よほどの弁士を車に乗せなければならなくなって、
いずれはスピーカーを鳴らしてまわる選挙カーそのものが廃れてしまうだろう。
と、ここまで考えて、「まてよ、原稿を読み上げたらおしまいだな」と気がついた。
それ以外にも抜け道がいっぱいありそうだ。
単純に選挙カーそのものを禁止すれば良いだけではないか。なあんだ。
ま、しないんだろうけど。
蝉の声が耳の奥から消えたと思ったら、今度は候補者の名前がサラウンドで聞こえ始めるのか。
やれやれ、おそらくはこれが狙いだろうが、これまた危ない事に変わりはない。
いっそスピーカーで本物のセミの声を流してくれた方がマシかも知れない。
候補者別に蝉の種類を割り当てるのだ。
「はい、あなたミンミン。あなたはツクツクボウシね。あなたはヒグラシ、あなたは……」
あ、冬はどうしよう。
アルペン踊りは小槍の上で踊りましょう。 ― 2009/06/07
人間誰しも思い違いというのはあるのではないか。
漢字の読み違いや歌詞の聞き違いもあるだろう。
かつて漢字の読み間違いで名を下げた宰相のことを、
そうそう笑ってばかりもいられない。
少なくとも子供の時に間違えて覚えたことは多い。
私は小さい頃「焙じ茶」のことを、
「“法事”茶」と勝手に思いこんでいて、
法事の時に飲むお茶だとぼんやり考えていた。
法事の時だけ飲むそんなお茶がある訳はないのだが、
そこは子供である。
焙じ茶も時々飲んでいたのに、よく両親がしていた、
「今日は親戚の誰々の法事で…」云々という話を、
法事などたまにしかなかったにも拘らず、しょっちゅうあったような気がして、
飲む度に、「ははあ、また今日もどこかで法事があったんだな」などと考えていたのである。
いくら子供とはいえ、今から考えれば相当バカっぽいが、
近くに茶舖もなく、茶を焙じるなどという概念がその頃はとても持てなかったのだ。
また、歌の歌詞でも勘違いは多い。
これも子供の頃の話だが、「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」という歌がある。
♫緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小山羊も啼いてます
この歌の、「メイメイ小山羊も啼いてます」のところは、
小山羊が「銘々」つまり「それぞれ」啼いているのだと思っていた。
「んなバカな」とみなさんお考えかも知れない。実際この話をすると、たいていの人が、
「子供がそんな事を考える訳がない。子やぎの歌なら啼き声としか思わないはずだ」と言うのだ。
しかし当時の私は本当にそう思っていて、つまるところ、私はそんな子供だったのである。
もちろんこれらは全て子供の頃の勘違いの話で、今ではそんな事はありませんとも。
ここのブログの文章を読んで、あれ、この字違うんじゃ…と考えたことのあるあなた、
誤変換、誤変換。
(「鐘の鳴る丘」作詞:菊田一夫)
漢字の読み違いや歌詞の聞き違いもあるだろう。
かつて漢字の読み間違いで名を下げた宰相のことを、
そうそう笑ってばかりもいられない。
少なくとも子供の時に間違えて覚えたことは多い。
私は小さい頃「焙じ茶」のことを、
「“法事”茶」と勝手に思いこんでいて、
法事の時に飲むお茶だとぼんやり考えていた。
法事の時だけ飲むそんなお茶がある訳はないのだが、
そこは子供である。
焙じ茶も時々飲んでいたのに、よく両親がしていた、
「今日は親戚の誰々の法事で…」云々という話を、
法事などたまにしかなかったにも拘らず、しょっちゅうあったような気がして、
飲む度に、「ははあ、また今日もどこかで法事があったんだな」などと考えていたのである。
いくら子供とはいえ、今から考えれば相当バカっぽいが、
近くに茶舖もなく、茶を焙じるなどという概念がその頃はとても持てなかったのだ。
また、歌の歌詞でも勘違いは多い。
これも子供の頃の話だが、「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」という歌がある。
♫緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ小山羊も啼いてます
この歌の、「メイメイ小山羊も啼いてます」のところは、
小山羊が「銘々」つまり「それぞれ」啼いているのだと思っていた。
「んなバカな」とみなさんお考えかも知れない。実際この話をすると、たいていの人が、
「子供がそんな事を考える訳がない。子やぎの歌なら啼き声としか思わないはずだ」と言うのだ。
しかし当時の私は本当にそう思っていて、つまるところ、私はそんな子供だったのである。
もちろんこれらは全て子供の頃の勘違いの話で、今ではそんな事はありませんとも。
ここのブログの文章を読んで、あれ、この字違うんじゃ…と考えたことのあるあなた、
誤変換、誤変換。
(「鐘の鳴る丘」作詞:菊田一夫)
いちばんイメージダウンしたのは誰か。 ― 2009/06/02
先日沖縄で、
暴走族に憧れる若い人を減らす目的で、
カッコ悪い新名称を決めるために公募し、
「ダサイ族」に決定したというニュースがあった。
このネーミングセンス自体が
ダサいと感じられるのは、私だけではあるまい。
イメージダウンを図ろうとしたのだろうが、
むしろこれを決定した人たちの方が、
ダサいと思ってしまった。
そもそもこの名では、
彼らがどのような行為を行う集団かが表されてない。
単にファッションのダサい集団にも当てはまるし、
完全に意図が空回りしている印象である。
第一これを選んだ人たちは、価値観の多様化した昨今の世情への認識が足りないのではないか。
「気持ち悪い」も「かわいい」に転じたり、「ダサい位がカッコいい」といった考え方さえあるのだ。
ネット上など一部では、従来より「珍走団」なる名称がよく使われていた。
これなら行為も表現され、なおかつそれをうまい具合に貶めている。
なぜ新たに募集する必要があったのだろうか。
むろん、言葉は時代の移り変わりによって、どんどん意味が転じて全く別の意味が付与されたりもする。
また、定着してしまえば完全に記号化し、破壊力が失われていくこともあるだろう。
「珍走団」も当初の力はないかも知れない。
しかし「ダサイ族」は幾つもの意味で、始めから件の目的を達成するための条件を備えていないと思う。
まさかとは思うが、アフリカのあの部族の名と掛けてるのではないだろうな。
だとすれば、彼らに失礼極まりない話だし、とんでもない。
あるいは、これも以前書いた、募集イベントのためのイベントではないだろうか。
つまり募集イベントを行うこと自体が啓蒙につながるのだから、結果はどうでも良いという考え方である。
さて、このブログをお読みになったことがある方なら、
「ははあ、この辺りで『自分こそ本物のダサイ族』だと言って落す気だな」と察したかも知れない。
残念ながら、お察しの通りです。
暴走族に憧れる若い人を減らす目的で、
カッコ悪い新名称を決めるために公募し、
「ダサイ族」に決定したというニュースがあった。
このネーミングセンス自体が
ダサいと感じられるのは、私だけではあるまい。
イメージダウンを図ろうとしたのだろうが、
むしろこれを決定した人たちの方が、
ダサいと思ってしまった。
そもそもこの名では、
彼らがどのような行為を行う集団かが表されてない。
単にファッションのダサい集団にも当てはまるし、
完全に意図が空回りしている印象である。
第一これを選んだ人たちは、価値観の多様化した昨今の世情への認識が足りないのではないか。
「気持ち悪い」も「かわいい」に転じたり、「ダサい位がカッコいい」といった考え方さえあるのだ。
ネット上など一部では、従来より「珍走団」なる名称がよく使われていた。
これなら行為も表現され、なおかつそれをうまい具合に貶めている。
なぜ新たに募集する必要があったのだろうか。
むろん、言葉は時代の移り変わりによって、どんどん意味が転じて全く別の意味が付与されたりもする。
また、定着してしまえば完全に記号化し、破壊力が失われていくこともあるだろう。
「珍走団」も当初の力はないかも知れない。
しかし「ダサイ族」は幾つもの意味で、始めから件の目的を達成するための条件を備えていないと思う。
まさかとは思うが、アフリカのあの部族の名と掛けてるのではないだろうな。
だとすれば、彼らに失礼極まりない話だし、とんでもない。
あるいは、これも以前書いた、募集イベントのためのイベントではないだろうか。
つまり募集イベントを行うこと自体が啓蒙につながるのだから、結果はどうでも良いという考え方である。
さて、このブログをお読みになったことがある方なら、
「ははあ、この辺りで『自分こそ本物のダサイ族』だと言って落す気だな」と察したかも知れない。
残念ながら、お察しの通りです。
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