鉛筆達への賛美歌か、鎮魂歌か。2010/07/18

鉛筆達への賛美歌か、鎮魂歌か。
先日のニュースサイトの記事によると、
宮崎駿氏がスタジオジブリの小冊子の特集記事で、
「iPadを操作する手つきは自慰行為のようだ」
と発言されているらしい。
 
原文を読んだ訳ではないが、そんな事を言い出せば、
たいていのことは同じように言えてしまいそうだが、
テクノフォビアとの評もある氏らしい発言ではある。
 
誤解のないように書くと、氏の発言の本来の趣旨は、
自身には紙と鉛筆さえあればよく、
単なる消費者になるのではなく、生産する者になれ、
ということのようだ。
 
むろん、iPad等のいわゆる情報端末に、
のめり込む事の危うさを指摘しているのは、Newsweekなども含め、なにも氏ばかりではない。
また、iPadでは生産的なことが何もできないという考えは、いささか氏の偏見が大きいと思うが、
気持ちは分からぬでもない。
先端技術を詰め込んだ製品を所有し使っているだけで、
あたかも自分自身が高みに登ったかのように感じるのは、確かに愚かなことだと言えるだろう。
 
ここで、或る古いSFの短編を思い出すのは私だけではないはずだ。
この作品の主人公は、ほぼ全ての若者がパスする生涯に一度の適性試験に落ち、
そのために最先端のシステムによる自動職業訓練を受けられなかった。
同級生はみんなそのシステムのプログラムを受け、誇らしげにそれぞれの適性に応じた職業に就いていた。
主人公はと言えば、図書館と庭がある療養所のような施設で、先端技術とは無縁で暮すことになる。
元々成績の悪くなかった彼はドロップアウトしたことに耐えきれず、そこを飛びだしてしまうのだが、
実は彼らは別の適性試験にパスし、創造力を発揮すべく配置された類い稀な才能だったという話である。
 
先端のテクノロジーと言えど、機械が自動的に生み出しているのではなく、
それも人間の創造力の賜物であることを忘れてはなるまい。
 
私もデジタル化の波が押し寄せる前は、烏口やロットリングなどのペンで紙の上にデザインしていたのだ。
二十年近く前、DTPによる大きな変革が訪れ、対応できない人はことごとく転職せざるをえなくなった。
だがどれだけ技術革新が進もうとも、物事の本質は変わらない。最先端のIT機器であれ道具は道具である。
低い脚立に立つか、高い脚立に昇るか、あるいはそこから羽ばたくのか、要は人間次第ではないか。
 
ところで、上で或る古いSFなどと態とぼかしたように書いているが、
実は作者とタイトルがどうしても思い出せなかったのだ。
確か外国の有名作家の作品だったと思うが、なにぶん若い時に乱読したものの一つなので、
この錆び付いた脳の検索機能ではリストアップされないのである。
やはり私には、どう言われようと情報機器が欠かせないのか。…というオチにしようと思ったが、
何度もやりすぎたパターンだという事にはかろうじて気がついた。回数は思い出せないがね。
 

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