真夏の昼のミステリーと暑さにヤられた妄想と。2011/08/20

真夏の昼のミステリーと暑さにヤられた妄想と。
前にも書いたが、JR高架脇の道を自転車でよく通る。
特に夏場などは高架がちょうど良い日よけになって、
かなり快適に走れるのだ。
 
高架下はほとんど駐車場になっているのだが、
その中に高いフェンスが張り巡らされた一画がある。
そこは内側にぐるりとコンテナが配置されていて、
真ん中が10m四方ほどの空きスペースになっている。
先日このスペースの真ん中に靴が落ちていた。
 
黒いスニーカー様の割と新しい靴が、
片方だけポツンと放置されているのだ。
頻繁に人が出入りする場所ではなさそうで、
何日もそのまま、あるいは未だにあるかもしれない。
 
さて、ここから何故この靴が片方だけここに放置されるに至ったかを推理してみよう。
 
まず思いつくのは、フェンスの外で靴を放り投げて天気占いをしてたのが、過って中に入れてしまった説。
だが靴は充分にサイズが大きく、天気占いをやりそうな子供のものとは思われない。
もちろん大の大人がやらないとは限らないが、可能性は低いだろう。
 
では、誰かががいじめられて靴を投げ入れられた、というのはどうか。
これも上記と同じく、年を下に見積もっても高校生くらいで、いじめ方として用いそうもない。
 
あそこの歩道には、散歩の犬の糞を処理せずに放置する輩が多い。
その犬の糞を踏んだヤツがいて、そのあまりに臭さに泣く泣く靴を遺棄せざるを得なかったと。
 
あの靴は囮で、スニーカーのコレクターが拾おうとすると網にかかる捕獲器というのはどうだ。
捕まえた後どうするかは知らん。
 
高いフェンスがどうも怪しい。ズラリと並んだコンテナは何処かへの秘密の出入り口になっているとか。
JRに乗る庶民を横目に、偉いさんとその家族はあれを使って各地に一瞬で移動できるに違いない。
 
あるいはJRの高圧線と何やら磁力線の相互作用で人間消失が起こったのでは。
もしかするとUFOにさらわれたか…。実はあの場所でターミネーターがだな…
 
と、ここまで挫折せずに読んだあなた、「このBなんとかってヤツは相当なヒマ人だな」と思ったでしょう。
その通り!
しかし最後まで読んだあなたもなかなかのヒマ人ですぞ。
 

睡眠不足で朦朧とした意識から漏れ出たような。2011/04/30

睡眠不足で朦朧とした意識から漏れ出たような。
若いとき、ある友人がバイクで事故を起こし、
頭の右側を強打した影響で、
左半身が一時的に麻痺してしまった事があった。
 
その時に左の視覚も一時的に無くなったらしい。
素人考えだと、何も見えないのだから、
真っ暗になると思いきや、そうではないのだという。
黒とも白とも付かない、まさに「無」なのだと。
イメージ的には、テレビのホワイトノイズに近いと。
 
むろんあの砂嵐そのものではないのだが、
とにかく感じた事のない色というか感覚なのだとか。
起きている時は、片方の視力になったものの、
ごく普通で特に何も感じられないのだが、
寝る時に目を閉じると、
じわじわとその虚無の世界が広がる。
それが恐ろしくてなかなか寝付けないということだった。
 
この話は臨死体験などでよく聞かれる「お花畑」のごとく、彼の脳が作り上げた幻視かも知れない。
また彼の脚色も交えているであろうから、誰しもが同じ状態になれば、同じように感じるかは分からない。
しかし、ここで「無」の色というか、感じられる感覚という所が実に興味深い。
白は光があふれている状態で、ある意味虚無とはほど遠い。
また黒も、どれだけ漆黒の闇であろうが、それほど途轍もない恐怖を齎す虚無とは言い難いのではないか。
もっと次元を超えたとっかかりの無さ、底無しの虚無感をもたらすものが、真の無なのだろうと思う。
 
おそらく、死というのはその究極の姿だと言えるが、これが途轍もなく恐ろしい。
意識が消え失せ、全てを失う虚無がどのようなものなのか。震災以降、死について考える事も多くなった。
 
しかしこれはまだ、無を感じることのできる自分自身が存在しているような感覚でいるだけなのだ。
その存在自体が消滅するということが、やはり想像の地平を超えている。
不可知なものに恐怖を感じるかどうか、またそれをどのように克服するか、
この辺りが宗教の果たす役割なのだろうが、私にはどのようなものであれ、宗教はおそらく役に立つまい。
哲学書を何冊読んでも、恐怖という原始的な感情を完全に克服できるほど、私の知性が高いとも思えぬ。
 
私が思いつく、この恐怖から逃れる術はただ一つ。考えないことである。
考えさえしなければ向き合うことも無く、平穏に生きてゆける。
考えたところで死そのものから逃れることはできないのだから。
 
と、もっともらしく書いているが、実は普段から何も考えていないのは皆さんもご存知の通り。
徹夜続きの朦朧とした意識の中ではたいしたオチも思い浮かばず、妙なテンションが上がるばかりなのだ。
これからもそんな感じでいくぜ、ヒャッハー!
ヒャッハーって何?
 

鉛筆達への賛美歌か、鎮魂歌か。2010/07/18

鉛筆達への賛美歌か、鎮魂歌か。
先日のニュースサイトの記事によると、
宮崎駿氏がスタジオジブリの小冊子の特集記事で、
「iPadを操作する手つきは自慰行為のようだ」
と発言されているらしい。
 
原文を読んだ訳ではないが、そんな事を言い出せば、
たいていのことは同じように言えてしまいそうだが、
テクノフォビアとの評もある氏らしい発言ではある。
 
誤解のないように書くと、氏の発言の本来の趣旨は、
自身には紙と鉛筆さえあればよく、
単なる消費者になるのではなく、生産する者になれ、
ということのようだ。
 
むろん、iPad等のいわゆる情報端末に、
のめり込む事の危うさを指摘しているのは、Newsweekなども含め、なにも氏ばかりではない。
また、iPadでは生産的なことが何もできないという考えは、いささか氏の偏見が大きいと思うが、
気持ちは分からぬでもない。
先端技術を詰め込んだ製品を所有し使っているだけで、
あたかも自分自身が高みに登ったかのように感じるのは、確かに愚かなことだと言えるだろう。
 
ここで、或る古いSFの短編を思い出すのは私だけではないはずだ。
この作品の主人公は、ほぼ全ての若者がパスする生涯に一度の適性試験に落ち、
そのために最先端のシステムによる自動職業訓練を受けられなかった。
同級生はみんなそのシステムのプログラムを受け、誇らしげにそれぞれの適性に応じた職業に就いていた。
主人公はと言えば、図書館と庭がある療養所のような施設で、先端技術とは無縁で暮すことになる。
元々成績の悪くなかった彼はドロップアウトしたことに耐えきれず、そこを飛びだしてしまうのだが、
実は彼らは別の適性試験にパスし、創造力を発揮すべく配置された類い稀な才能だったという話である。
 
先端のテクノロジーと言えど、機械が自動的に生み出しているのではなく、
それも人間の創造力の賜物であることを忘れてはなるまい。
 
私もデジタル化の波が押し寄せる前は、烏口やロットリングなどのペンで紙の上にデザインしていたのだ。
二十年近く前、DTPによる大きな変革が訪れ、対応できない人はことごとく転職せざるをえなくなった。
だがどれだけ技術革新が進もうとも、物事の本質は変わらない。最先端のIT機器であれ道具は道具である。
低い脚立に立つか、高い脚立に昇るか、あるいはそこから羽ばたくのか、要は人間次第ではないか。
 
ところで、上で或る古いSFなどと態とぼかしたように書いているが、
実は作者とタイトルがどうしても思い出せなかったのだ。
確か外国の有名作家の作品だったと思うが、なにぶん若い時に乱読したものの一つなので、
この錆び付いた脳の検索機能ではリストアップされないのである。
やはり私には、どう言われようと情報機器が欠かせないのか。…というオチにしようと思ったが、
何度もやりすぎたパターンだという事にはかろうじて気がついた。回数は思い出せないがね。
 

わたしのわたしのアレは左利き。2010/07/03

わたしのわたしのアレは左利き。
雨が屋根を打つ音が間断なく聞こえ、
それが逆に静けさをもたらしているような深夜、
いつものように、一人コーヒーを入れる。
 
コーヒー豆の袋からメジャースプーンで、
マグ用にと何気なく1杯、2杯・・・
と、ふと気がつくと、
右手に豆袋、左手にスプーンを持って作業をしている。
 
思い返せば、いつもこうやってやっているのだ。
私は右利きである。それは間違いない。
 
確かに、何か床に散らかったものを拾い集める時も、
右手にそれを入れる物を持って左手で作業している。
コーヒーを飲むのも、ビールを飲むのも左手である。
むかし煙草を吸っていた時も左だった。
 
むろん右でやることも当然のことながら多い。
字を書くのも、箸を握るのも、マウスを操作するのも、歯を磨くのも、刃物を使うのも右だ。
どうやら微妙な力加減が必要な作業を右手が受け持つようである。
 
そう言えば、球技をやっていた若い時、両手を同じように使えなければダメだという事で、
左手で箸を持って食事をすることが推奨されていた時代があった。
食事という、生きるために何が何でもやらなければならない場面でのトレーニングなので、
誰しもすぐにできるようになり、実際今でも左手で箸が普通に使える。
もしかするとこの頃の名残なのか、何か違う気もするが。
 
あまり人に聞いたことはないが、これは右利きの人には普通のことなのだろうか。
体の中で偏りが出ないように無意識にバランスをとっているのかも知れない。
 
左手でコーヒー・酒・煙草・ゴミを扱い、右手で仕事や食事に関するものを扱っているということになる。
ここだけの話、トイレで拭くのも左手である。インド人の様に神の右手・不浄の左手と呼んでみるとする。
なるほど、無意識の行動だからこそ、これは何か意味がありそうな行動に思えて来た。
いかんいかん、私がどちらの手で扱うかで、その物や人をどう思っているのかがバレるではないか。
 
ところで、タイトルから下ネタを想像したあなた、残念でした。
ここにそんな記事を書く訳……いやまてよ、アレ…。
 

老兵は死なず、ただ錆び付くのみ。2009/09/09

老兵は死なず、ただ錆び付くのみ。
少し前にさかのぼって恐縮だが、
このブログからもリンクしている、
一日一冊」の8月23日付けの記事に、
その日採り上げた対談本に関連して
井伏鱒二の盗作について書かれていた。
 
古今東西、盗作に関する事件や疑惑は多く、
またその性質上、事が簡単でない場合も多い。
 
全く確信犯的な場合は論外で、
ペナルティを科すべきなのだが、
これをすっとぼけたり、開き直られると厄介だ。
 
ノンフィクションを素材として、
フィクションの小説にしたとも主張されたりする。
いくつかの文章を寄せ集めたものを、これはアートに於けるコラージュ技法だなどという輩も出てくる。
これは一種のオマージュです。出典や引用の注釈を入れ忘れました。等々。
 
デザイン業界の場合、少しこの辺り特殊で、技法そのものは流用が許されているのだ。
そうでなければ、それこそ子持ち罫のようなものさえ引けぬことになる。
また最近WEBのボタンに多い、MacOS XのAquaのようなグラフィックも使えぬようになってしまう。
無論これはあくまで技法であって、画像などの素材を勝手に流用してはならないのはいうまでもない。
 
あと厄介なのは本人がそれと気付かず、知らず知らずのうちに他人の著作物を使ってしまうことである。
つまり、多くの著作物を目にし、自分でも作り上げている場合、
何が自分のオリジナルで、何が他人の手によるものかが判別できなくなってきたりするのだ。
脳内に検索システムでもあればよいのだろうが、あっても精度に信頼性がそれほどおけまい。
 
私の場合、かなり以前から脳内検索システムはろくに作動せず、
それどころか、以前自分の書いたことさえ忘れ、何度も同じ話を書いているかも知れない。
なにしろ、友人がかなり面白い話をしたので、「へえ〜面白いね」と感心していたら、
以前に私から聞いた話だというではないか!!
いくら何でも検索システム錆び付き過ぎだろう。こうなりゃ昼食を2〜3回食っても驚かないかも知れぬ。
 
ところで、今日が9.9.9という日付だからって、あの方を連想してこんな話題にした訳ではありませんよ。
というか、最後になってそれを思い出した。
 
やっぱり相当ヤバいな。
 
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