日常の中に憤りもショックも潜んでいる。2011/05/22

日常の中に憤りもショックも潜んでいる。
先日珍しくバスに乗った。
繁華街と住宅街を結ぶバスで、
休日とあって、あいにくかなり混んでいた。
 
我々と同じ停留所から、
赤ちゃんを抱いた母親が二人乗り込んだのだが、
なんと満席の誰も席を譲らないのである。
 
前の優先席に優雅に座っていた、
小綺麗にした若い女性の二人連れも、
目の前に立った母親に席を譲るどころか、
赤ちゃんににっこり微笑みかけ、
「かわいい」とか言いながら、
自分は優しい女オーラを放っていたのだ。
 
「ンはことはどうでもいい!席を譲れ!このボケェ!」と心の中で叫んだのは言うまでもない。
その隣に座っていた、小学生低学年の男の子とその母親らしき女性も何くわぬ顔である。
子供の方はぼーっとして気がまわらないこともあるだろうが、母親は母親の気持ちがわかるだろうに。
 
電車ならまだしも、バスの中で子供を抱いたまま立つほど危険なことはない。
震災以降、例のACのCMで数えきれぬほど啓蒙されていながらこれである。とにかくガッカリしたのだ。
もっともあのACの啓蒙広告もあまりよい出来とは言えない。
あれでは席を譲るのは、逆に相当な勇気がいると言っているような印象を与えるからである。
 
しかしここで、私から「席を譲ってあげてください」というのも考えものだ。
譲らなければ場が険悪な空気になり、譲ったら譲ったで母親も気まずかろう。
むろん場の空気なんぞよりも安全の方が大事だとは思うが、結局そのまま我々は目的地で降りてしまった。
 
最近、故 河合隼雄の文章を目にする機会があった。
ウィリアム・ブレイクの言葉を引用した「善は微に入り細にわたって行わねばならない」と題された文だ。
自分が善行だと思って行った行動が、結果的に悪い結果を齎すこともあり得るということを想定して、
独りよがりにならぬよう、細心の注意をもって善は行わなければならないという趣旨だった。
 
だが乳児を抱いた母親にバスの席を譲ることなど、善行というほどのことではない。
挨拶程度に気軽にできるようなことのはずだ。
震災に関連して日本人の振る舞いが世界中で賞賛されたりしているが、
本当に賞賛されるような行いを我々は行っているのだろうか、と思ってしまった一件である。
 
ところが、そんなもっとらしい事を言って油断していると、母親でなく私の方が席を譲られかねないのだ。
昨日も幼稚園児にお爺ちゃん呼ばわりされたショックを隠しつつ、爺さんに成り済ましたばかりだからな。
 

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