栗粥が煮えぬ間の夢で見た人生。2009/07/29

栗粥が煮えぬ間の夢で見た人生。
先日行われた同窓会のスナップ写真が
公式サイトにアップされていた。
すぐに全てをダウンロードしたのだが、
やはり我ながら自分の姿が怪しいのである。
 
動画でなく静止画なのにもかかわらず、
その挙動不審ぶりが伺えるとはどういう事だ?
まさに筋金入りとしか言いようがない。
 
そもそも全体をざっと撮った写真の多くに、
隅の方で寂しくなった頭だけ見切れているとは。
もう、狙ってやってるとしか思えない。
「さすが私」などと呟いてみたり。
 
それはともかく、
こうしてざっと見ると、10歳以上の年齢差があるのではないかと思えるくらい、個人差が大きいのである。
その人の生き方がそれぞれ滲み出た結果かも知れないし、また持って生まれたものかも知れない。
あるいは、もしかすると我々の年齢が一番差が出て見えるのではないか。
更に10年20年と経てば徐々にその差が埋まり、全員目出たく老境にいらっしゃい、と相成る。
 
しかし、前回も書いたしコメントもされているように、
顔の中心を眺めていると、高校生の頃と少しも変わらないような気になるのは確かに不思議ではある。
人間本質は変わらないのだなあ、などと考えていたら、ハッと思いついた。
 
ひょっとすると、実は今はまだ高校時代で、
これは私があの飯の不味い下宿屋の6畳の部屋で見ている、長い長い夢の一部なのではないか。
つまり、その時の想像する姿なのだから、
髪が薄いか白いかといった脚色がされているだけの未来なのではないだろうか。
とすれば、上記のよく見ると皆があまり変わらない姿なのもうなずける。
 
有名な中国の故事「邯鄲の枕」では、廬生の波瀾万丈の人生は栗粥が煮えぬ間に見た夢であった。
それと同じではないと誰が断言できよう。
 
何という事だ、
インターネットや携帯の隆盛も、9.11もバブル崩壊も世界同時不況も、地震も津波も新型ウィルスも、
近所のスーパーでレジのお姉さんがおつりを間違えたのも、首を寝違えたのも、
全て私が夢で予知している事だったのか。
 
いや、そんな事より、目が覚めれば明日あの不味い飯を食わねばならんのか。とほほ。
 

 
〈追記〉Linkに「一日一冊」を追加しました。
 

コメント

_ mitoma@asu ― 2009/07/30 10:10:35

そっかー、夢なのか。胡蝶の夢というのもあるかもしれませんし。
私は醒めた時点でどこに戻るのか心配です。
 それにしても飯の不味い下宿の話は当時から聞いていましたが、
ほとんど虐待に近いものがありましたね。寮が焼けたのがケチのつき始め
だったのかな。

_ binsei ― 2009/07/30 19:51:03

笑顔というか、笑い方はみんな高校生の頃そのまんまです。
夢だとしても不思議でないくらい。
もっともそれぞれ実生活に戻れば、多少振る舞い方も違うのかもしれませんが。

しかし邯鄲の枕はやはり勘弁して欲しい。あの頃の体力は羨ましいですが。
せめて、下宿屋を決める前の時点に戻りたい。

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